68年5月6日~9日:カルチエ・ラタンの学生反乱

<68年5月>の学生運動は、5月3日、ソルボンヌでの学生集会をパリ大学区長が警察力で排除し、ソルボンヌとサンシエ分校の授業の中断を決定したのに反発して一気に高揚した。3日の集会の主催者は、UNEF・革命的共産主義青年団(JCR)〔トロツキスト〕・革命的学生連盟(FER)〔トロツキスト・ランベール派〕・大学アクション運動(MAU)。ナンテール校封鎖とダニエル・コーン=ベンディット以下、3月22日運動の学生8人のパリ大学規律委員会への出頭命令に対する抗議にあった。同時に、噂されていた極右学生団体「西洋」(Occident)―のちのウルトラ経済自由主義者アラン・マドランや、サルコジ側近パトリック・ドヴェルジャンを含む―の襲撃に備える意味合いもあったらしい。この弾圧は、その後の警察によるソルボンヌ封鎖とカルチエ・ラタン選挙も相俟って、ただちに多くの学生・教員に大学自治の伝統を脅かす暴挙として受け取られた。

この暴挙に対する抗議行動としてカルチエ・ラタンで抗議のデモが始まる。ダンフェール=ロシュロー広場から、サン・ミシェル通りをセーヌ河畔まで辿るのが定番のコースである。その口火を切ったのが、ナンテールの学生8人がソルボンヌの規律委員会に出頭した6日夕刻、UNEFと全国高等教職員組合(SNESup)が主催したデモだった。警察はこのデモに暴力的弾圧を加え、カルチエ・ラタンでは学生と警察官の衝突が未明まで続いた。逮捕者422名、けが人600名近く。この弾圧に対してUNEFがふたたび呼びかけたのが、西川さんが参加した翌7日夕刻のデモである。ダンフェールからカルチエ・ラタンへ、さらにエトワール広場へと向かう予定だったが、警官隊がリュクサンブール公園南でサン・ミシェル通りを封鎖。デモの主力はポール・ロワイヤルからモンパルナス通りに入り、そこからコンコルド広場を経てエトワール広場に至った。参加者数は3万人ろも5万人とも言われる。デモ自体は平穏に終わったが、この日も夜半からモンパルナス付近でデモ参加者と警官隊の衝突が始まり、未明まで続いていた。

UNEFとSNESupは8日にも、ソルボンヌ封鎖解除と逮捕学生の解放を求めて、アル・オ・ヴァンの理学部(現ジュシウ・パリ大学)で集会を開催、そこからリュクサンブール方面に向かうデモを組織する。ソルボンヌ突入を避けよという組織者側の要請に、デモ参加者たちは少なからぬ不満を覚えたらしい。翌9日、ソルボンヌ広場の自然発生的集会で、UNEFのジャック・ソヴァンジョとSNESupのアラン・ジェスマールは自己批判。支持表明に駆け付けた当時の共産党の代表的知識人アラゴンは、コーン=ベンディットら学生たちの野次を浴びる。

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