学生運動に労働運動が同期して一気に昂揚した<68年5月>だが、下旬には次第に両者の分裂も明らかになる。20日、UNEFとCFDTと共同声明が謳う「自主管理」をCGTは「無内容」と切って捨てる。22日、ヨーロッパ行脚に出かけたコーン=ベンディット(19日~、28日に密かにパリ帰還)の再入国を内務大臣が禁止した際にも、ただちに抗議行動をとった学生たちに対し、共産党とCGTは「ドイツ人アナキスト」の擁護に加わろうとはしなかった。
国民議会で政府問責決議案が否決された22日以降、政府はこの分裂につけ込むように反転攻勢に出る。すでに23日には、サン・ミシェル噴水付近でCRSと学生たちの激しい衝突が起こっている。24日、CGTが労働条件の改善と政府・経営者との交渉を求めてセーヌ両岸で集会とデモを行い(参加者15万人)、翌日以降のグルネル街での政府主催の諸労働組合と経営側代表の交渉の前触れとなったのに対し、UNEF、SNESup、CAL(高校生行動委員会)、3月22日運動、JCRなど学生・教員団体は、リヨン駅からバスティーユ広場への行進を計画、コーン=ベンディットの再入国禁止に抗議し、共産党やCGTの日和見を揶揄し、ド・ゴール退陣を声高に叫んだ(参加者3万人)。しかし、デモは行く手を遮るCRSとバスティーユ広場の手前で衝突、学生たちはバリケード封鎖で応じるが、すでに対策を練っていたCRSに押し戻されてしまう。同日には、3月22日運動のメンバーがパリの為替取引所襲撃を決行し、反資本主義闘争を鼓舞してもいるが、ポンピドゥーは学生たちをパリ西部(高級住宅街と政治経済の中心部)に泳がせ、ブルジョワたちの危機感を煽ることを目論んでいたというから、統治者はいっそう老獪だったかもしれない。その後、カルチエ・ラタンに戻った学生たちは、ふたたび深夜までCRSとバリケード闘争。<68年5月>でもっとも暴力的な一日と言われるこの24日から25日にかけては、フランス全土で学生・警察各1名の死者も出た。
もっとも、<68年5月>のダイナミズムは、労働組合との「交渉」によっても、学生運動に対する暴力的弾圧によっても、容易には抑え込まれなかった。24日、この間沈黙を守ってきたド・ゴール大統領は、この月最初のテレビ演説を行い、国民の「参加」を謳い文句に大学改革と経済改革を約束、その任務を自分に委ねるかいなか国民投票で問うことを提案する。だが、そんな政治家の小手先の延命策では、学生運動も労働運動もまったく沈静化の兆しを見せなかった。
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